不器用であることや選択肢がないことすらも、大きな武器になる可能性もある

不器用であることや選択肢がないことすらも、大きな武器になる可能性もある

多くの人は極端に器用でもないし、極端に不器用でもない。ほどほどのところで生きている。「どちらかと言えば器用」か「どちらかと言えば不器用」の範疇にある。ほどほどに器用であり、ほどほどに不器用である。しかし普通の人であれば、できれば器用であることや選択肢がたくさんあることを望むだろう。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

器用な人間が一方的に有利であるとは限らない

2020年の今年で、このサイト『ブラックアジア』は20周年になる。先日、それをある人に話したら「20年も同じことをやってるんですか?」と呆れたように見つめられた。「飽きないんですか?」と言われたので私は首を振った。

「飽きる」ってどういうことだろう。私が、闇に生きる女たちに飽きるということだろうか? 飽きるどころか、私は今も彼女たちに夢中だ。心から愛している。

私はぶらぶらと知らないところを旅して、出会った女性に感動したり、境遇に涙したり、彼女たちの生きている社会に思いを馳せたりして生きてきた。それが自分の人生の原点でもある。こうした生き方は昔からほとんど変わっていない。

今でも、社会の暗部でひっそりと生きている女性たちが好きだ。何も持たないけれど、そんな中で泣いたり笑ったりして暮らしている女性に惹かれる。

私が知り合ってきた女性たちはみんな貧しかったし、社会の底辺にいたので、私の関心も貧しさや社会の底辺に集中するようになった。私は変わっていない。二十歳の頃から、同じ世界に固執してずっと同じところにいると言っても過言ではない。ある意味、私は不器用である。

あなたは何でもできる器用なタイプだろうか。それとも、ひとつのことしかできない不器用なタイプだろうか。誰でもそうだが、何でもできる人の方が得だと思う。事実、今の世の中では何でもできる人の方が要領良く世渡りできる分、得することが多い。

しかし、物事はうまくしたもので、器用な人間が一方的に有利であるとは限らないのが面白い。器用であってもそれがデメリットになることもあるし、不器用であってもそれがメリットになることもある。

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不器用であることにも、メリットがある

器用であることのデメリットというのは何か。器用な人はあまりにもいろんなことができ過ぎるので、それが仇になり、そのどれもが中途半端になってしまうことだ。俗に言う「器用貧乏」になってしまう人がいる。

あまりにも何もかもできると、思わずいろんなことをしてしまう。あるいは他人に便利屋のように使われたりする。その結局どれもが中途半端になってしまって大成できなくなる。そういう人をたくさん見かける。

不器用であることのメリットは、不器用な人はいろんなことをうまくできないので、自分がうまくできることだけを地道に、丁寧に、深く追求していくことだ。そうすると、それが極まってその世界の深みを知る。

もちろん必ずしも器用な人間が中途半端になるとは限らないし、不器用な人間であれば全員が深淵を見るわけではない。一般的に見れば、器用な人は不器用な人よりも成功しているし、ひとつのことすら成し遂げられないほど不器用な人もいる。

ただ、器用であってもデメリットがあり、不器用であってもメリットがあるという一面があることは、なかなか示唆に富んでいる。優れているように見える方が、絶対的有利ではないというところが面白い。

何でも器用にできるということは、いろんな面で選択肢がたくさんあるということだ。そして、選択肢があるということは、可能性もたくさんあるということだ。

職業選択でも、器用な人は多くの選択肢がある。たとえば、医者を目指すことも、弁護士を目指すことも、事業家を目指すことも、何でも好きなものを選ぶことが可能な人もいる。また、どこかに会社に入るとしても、器用で優秀なので好感度も高く、会社は選び放題だ。

しかし、その中でひとつを選ぶと、他にも選択肢がたくさんあったわけで、本当に自分の選択が良かったのかどうかを悩む。「贅沢な悩み」だが、それが器用な人間を欲求不満に陥らせる。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

選択肢がないことすらも、メリットになる理由

選択肢がさほどない人間は、「自分にできるのは、それしかなかった」ような状態だから、「あっちの方が良かった、こっちの方が良かった」という選択肢は最初から存在しない。

いくつかの選択肢があったとしても、それは限られたものなのである。だから、いったん選択して「これ」と決めれば、もう腹をくくってそれをするしかない。選択肢がないので、それに集中するしかなくなる。

選択肢がないという状態が、皮肉にも、集中力や、粘りや、度胸を生み出していく。いろんな世界で一つのことだけに取り組んでその世界を極めた人は多い。それが「この人なら大丈夫」という安心感や信頼感を生み出していく。

不器用な人は、選択肢が少ないがゆえに、それに賭けるしかないので、それが好循環を生み出すのである。

これは、異性関係にも言えるかもしれない。器用な人は、自分を魅力的に魅せるのもうまい。そして、実際に魅力的な外見を作る。そして、付き合う相手を自分の好きに選ぶことができる。

付き合える相手の選択肢が山ほど合って、次々と相手を変えることもできれば、同時平行でいろんな相手と付き合うこともやろうと思えば可能だ。要領が良ければ、二股どころか、四股、五股も可能だろう。

不器用な人はとてもそんな選択肢はない。たったひとりの相手ですら、心をつなぎ止めるのに必死だ。しかし、不器用な人は自分でもそれを自覚しているので、その「たった一人」をとても大切にする。他がいないので、浮気など望んでもできない。

選択肢がないので、自ずとひとりに集中し、そしてそれが安定した家庭を作る土台になる。不器用であるというのは、そういったメリットもある。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

何が自分の武器になるのかは案外分からない

多くの人は極端に器用でもないし、極端に不器用でもない。ほどほどのところで生きている。「どちらかと言えば器用」か「どちらかと言えば不器用」の範疇にある。ほどほどに器用であり、ほどほどに不器用である。

しかし普通の人であれば、できれば器用であることや選択肢がたくさんあることを望むだろう。選択肢はありすぎると、迷って人生の欲求不満が増えるとは思わない。迷えるほどいろんなことができるのは素晴らしいと思っている。

それが器用な人のワナになってしまうので、そこは気をつけた方がいいのかもしれない。器用な人は、意識的に自分の選択肢を絞って「できるけれどもやらない」という一線を作っておけば器用貧乏にならなくてすむ。

選択肢が多ければ、何が自分にとって幸せだったのか分からなくなる。しかし、選択肢を絞っていれば、それに集中すればいいのだから迷いがない分だけ回り道をしなくて命の時間を節約できる。

器用であれば、価値感ですらも選択できる。様々な価値観に器用に順応できるのだ。しかし、価値観が多様化すると、迷いが生じやすい。幸せとは何かを追求しなければならない。しかし、器用であればひとつを追求する前に、次の価値観に目移りしてしまう。それが繰り返されると、充実感を得ることが難しくなっていく。

そう考えると「自分はこのような生き方しかできない」とシンプルに割り切れている人の方が、迷わない分だけ充実感を得やすく幸せも分かりやすいのではないか。

人間は長い人生を生きていく上で、何が自分の武器になるのかは、案外分からないものだ。不器用であることや、選択肢がないことすらも、大きな武器になる可能性もあるのだから、人生は捨てたものではないのかもしれない。

……と、20年前から何も変わらない私は思ったりするのである。

カンボジアを舞台にした鈴木傾城の作品

ブラックアジア・カンボジア編
『ブラックアジア・カンボジア編 売春地帯をさまよい歩いた日々(鈴木 傾城)』
『小説 スワイパー1999』
『小説 スワイパー1999 カンボジアの闇にいた女たち(鈴木 傾城)』実在の女性たちと実際に起きた事件を組み合わせて作られた鈴木傾城のブラックアジア的小説。コミック『アジア売春街の少女たち スワイパー1999』の原作です。

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