習近平の野望。独裁者が誕生するのは、独裁して欲しいと思う人がいるから

習近平の野望。独裁者が誕生するのは、独裁して欲しいと思う人がいるから

ひとりのトップがふんぞり返り、上層部が個人崇拝を強制し、関わっている全員が自分の人生を捨ててトップのために人生のすべてを捧げる。そんな狂ったような世界がある。個人崇拝を強制する組織は、それがどんな組織であれ人々を不幸にするのは100パーセント間違いない。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

習近平は着々と独裁者としての地位を固めている

コロナ禍の中であまり目立たなかったが、2021年7月1日に中国共産党創立100周年の祝賀行事が行われ、国家主席である習近平が人民服を着て天安門の楼上から演説した。

すでに数年前から言われていることだが、習近平は毛沢東を意識して自分を神格化させることに力を注いでいる。中国共産党は一党独裁だが、習近平はこの中国共産党を個人的に乗っ取って皇帝になろうとしているのである。

習近平は絶対に自分に対抗する人間を認めない。それが政敵であれ人民であれ、ことごとく脅迫・拘束・逮捕・殺害によって葬っていく。こうした神格化に向けた闘争は長く続けられてきて習近平の独裁の足元は固められつつある。

しかしながら、習近平には毛沢東ほどのカリスマ性はまったくなく、中国人民も別に習近平を熱烈に崇拝しているわけでもない。ただ単に、面倒くさいことに巻き込まれたくないから服従しているだけのように見える。

何しろ、今の中国はインターネットと監視カメラでガチガチにコントロールされた監視国家である。とりあえず、中国共産党という「長いもの」に巻かれていれば、それなりにメシが食えるので、一般市民としてはそれでいいとささやかな幸せを享受している。

それを見越して、習近平は着々と独裁者としての地位を固めている。

組織をまとめる方法はいくつもあって、百人百様でもある。それぞれの指導者が、自分に合った方法を採用して組織運営に当たっている。しかし、指導者が自身の神格化を進めていくというのは、最終的には国家そのものを衰弱させる。

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崇拝を強制するような指導者が世の中に存在する

異様な組織運営の最たるものは、「自身の神格化」と「崇拝の強制」である。ドイツのヒトラーも、中国の毛沢東も、ソ連のスターリンも、カンボジアのポル・ポトも、強烈な独裁で国を支配して崇拝強制を国民に強制した。

こういった独裁体制は現在は通用しなくなりつつあるが、それでも絶滅したわけではない。北朝鮮ではまだそのような異常な体制が続いている。北朝鮮の場合は金(キム)一族が3代に渡って独裁政治を敷き、国民が今も崇拝から抜け出せないのだからどうかしている。

国家だけではなく、組織という名前の付く集団の中には、規模が大きくても小さくても、無理やり人を洗脳し、崇拝させるようなやり方をする指導者が星の数ほどいる。

独裁者が国というスケールでそれを行うだけでなく、企業家が自分の企業の内部でそうすることもあるし、カルト教団が信者に崇拝を押し付けることもある。

これらの「強制崇拝」をする指導者は規模の大小に関わらずどこにでもいて、あの手この手で人間を押さえつけて、その人の人生を奪う。

ひとりのトップがふんぞり返り、上層部が個人崇拝を強制し、関わっている全員が自分の人生を捨ててトップのために人生のすべてを捧げる。そんな狂ったような世界がある。

個人崇拝を強制する組織は、それがどんな組織であれ人々を不幸にするのは100パーセント間違いない。

誰かを盲目的崇拝するというのは、まさにその人の奴隷になるということだ。自分が誰かの歯車や、都合の良い人間になる。そんな馬鹿げた人生があるだろうか。

優れた人間を見ると、誰もが自然な尊敬の念を抱く。誰でも人生の中で尊敬する人をひとりやふたりは持つ。

しかし、神のような絶対的存在として「崇拝させられる」というのは、自然な尊敬とはまた別種のものだ。それは、異様なことなのだ。

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崇拝を強制する組織は、その人の人生を奪う

自分の人生を生きるというのは、迷い、ぶつかりながらも、自分の頭で考えて、自分の意思で行動することである。他人を崇拝して、奴隷になることではない。

しかし、世の中には往々にして崇拝を強制する力が働くことがあり、大勢の人々がそれに巻き込まれる。崇拝を強制され、誰かの奴隷にされる。

「誰かを崇拝せよ」と言われれば全身全力で反撥する必要がある。崇拝を強制する人間や社会に抵抗し、戦わなければ生きている意味がなくなる。抵抗しないと、身も、心も、金も、すべて奪われる。

崇拝するということ自体が危険なのに、それを強制させるのだから異様であると感じなければならないのだ。

崇拝を強制する組織は、そこに属する人の人生を奪う。それは人を「奴隷化」する。それは一種の地獄だと言ってもいい。本当は信じていないものを強制されるほど、人間の尊厳を破壊するものはない。

独裁国家は国民全員に指導者の崇拝を強制する。

独裁者やその一族を崇拝することは、どんな任務よりもまして優先される。国民は、あらゆる仕事、あらゆる法律、そして親兄弟よりも優先しなければならない。

その個人崇拝は全執行部によって徹底され、裏切り者は家族もろとも処刑される。市民・軍隊はすべてひとりの人間の指示によって行動し、自ら考えてはならない。

忠実に命令を執行しなければならない。そして、命令のためには生命を投げ出さないとならない。独裁者が「指導」したら、それがどんなに理不尽であっても従う必要がある。

それはあまりにも馬鹿げた世界だ。

しかし、このような他人を強制崇拝や隷属化させる組織が存続できるというのは、逆に言えば、他人に隷属してもいいと考える従順な人がいるということでもある。

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なぜ「他人に人生を委ねてもいい」と思うのか?

誰も彼もが反逆者の精神があったら、強大な独裁者は生まれることはない。

独裁者が誕生するというのは、「他人に人生を委ねてもいい」という人も大量にいるということを意味している。逆らうよりも前に、相手に委ねる人がいるのだ。

なぜ、そのような人たちが生まれるのだろうか。その答えは「楽だから」だ。「考えなくてもいいから」だ。

自分の人生を自分で切り拓いて生きるというのは、とても大変で面倒なことだ。生き方を自分で決めて、生活を自分の力で成り立たせるというのは並大抵ではない努力が必要だ。

誰かに服従して、その誰かが食べさせてくれるのであれば、自分でどうするか考えるよりも「楽でいい」と考える人が確かにいる。

指導者が独裁的であればあるほど、すべてを委ねて何も考えずに生きていける。ロボットや歯車になるというのは、責任はすべて独裁者に取ってもらえるということでもある。

世の中が共産主義や社会主義や全体主義になったら、上が何か言えばそれに従って生きれば、少なくとも生活は保障してくれるのでとても楽なのだ。

もちろん、自分のやりたいこと、好きなことはできないが、責任は取らなくてもいいし、どう生きるかという「面倒なこと」を考える必要もない。

だから、我が指導者が「自身の神格化」と「崇拝の強制」を押しつけてきても、面従腹背でも何でもそれに従って長いものに巻かれていく。

ところが、人間の心は単純にできていない。崇拝がこれでもか、これでもかと続くと、いずれは反撥心も不満も怒りも湧きあがっていく。

しかし、そのときに反撥しても遅い。崇拝することによって、人生のすべてを掌握されてしまっており、もうそこから逃れられなくなっているからだ。崇拝に染まりきっていると、ある時点でそこからもう抜け出せなくなってしまう。

だから、私たちは崇拝を強制するような社会現象に気を付けなければならない。崇拝を強制してくる人間にはロクな人間がいない。毛沢東になりたがっている習近平も、その類いだということだ。

『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで(楊 海英)』

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